沖縄紀行と案内・24

沖縄紀行Part24:(旧海軍司令部壕)     Part25:(漫湖)へ
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沖縄紀行(24)豊見城 「旧海軍司令部壕」



壕内略図

壕内
旧海軍司令部壕内略図と壕内



沖縄戦の悲惨さが、壕の中から伝わってくる・・、

次に、北上しながら豊見城方面を目指した。目的地は、「旧海軍司令部壕」という元の海軍施設であった。
確か、那覇市と豊見城市の境界に位置しておるようだが、カーナビで追っていっても中々判りにくい所であった。 
それは閑静な住宅地に囲まれた高台の一角に立地していて、近隣の那覇市街が一望できる場所であった。この地に太平洋戦争末期、旧日本軍の司令部が置かれ、縦横に掘り巡らされた広大な壕において、多数の将兵が玉砕しているのである。
海軍壕戦没者慰霊之塔」の横に円形の透明なサッパリした建物がある、だがここは何も無いエントランスに過ぎなかった。 
ここからエレベーターで下ると始めて「壕」の入り口に達する。

受付より地下に向かって真っ直ぐに伸びた昇降階段の階段があり、冷たい風が吹き上がって来る中に靴音が響き、暗黒の闇に吸い込まれそうな感じで降りていく。 
コンクリートで固められたドーム状の通路が不気味に延びていて、通路横の各所には当時の兵員たちの部屋や設備施設が設えてあった。

下士官兵員室」は、彼らが十分に休息を取れるようなスペースは無く、地下水に膝まで浸かりながら、立ったままで寝ていたと言われている。
彼らの暗い目つきや暗闇に響き渡るうめき声が聞こえてくるようである。 
又、「司令官室」は、大田司令官が最期に爆死を遂げた部屋で、爆風で砕けた壁の跡が生々しく残っている。その白壁には、大田司令官の辞世の句が鮮やかに描かれたままで、彼の無念さが心を締め付ける。


司令室


ツルハシ
内部司令室と地下壕を掘ったとされる「ツルハシ」



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戦争と言う無残さ・・!!、沖縄戦の悲惨さが壕の中から伝わってくる・・、

1944年(昭和19年)、太平洋戦争において南西諸島の領土各島(サイパン島、テニアン島、グアム島など)では、日本軍の敗色が濃厚となり戦線が後退したため、最前線となった沖縄本島の軍備が強化されることになった。

沖縄における重要な軍事拠点の一つであった小禄飛行場(後の那覇空港)を守るための防空壕を建設することになり、飛行場を南東から見おろす標高74メートルの丘が選定された。
司令部壕は1944年8月10日に着工され同年12月に完成している。

掘削工事は、海軍第226設営隊(山根部隊)の約3000名が設営にあたり、殆どの工事は「ツルハシ」などを用いた手作業で行われたという。 
海軍司令部壕は最高軍事機密であったため民間人は近付くことも許されず、工事は軍隊の手のみによって行われたという。 そして完成後、全長450mの壕に4,000名もの兵士が収容されていたらしい。


沖縄戦は太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)、沖縄本島に上陸した米軍と日本軍との間で行われた地上戦である。

これは民間人を巻き込んだ日本国内での最大規模の地上戦であり、また日米最後の組織的戦闘となった。
地上戦は1945年3月26日から始まり、日本軍は惨憺たる敗北の結果、組織的な戦闘は6月23日に終了した。 海軍司令部壕では6月6日、大田司令官が『 沖縄県民かく戦えり、県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを・・、 』という電文を発信している。 

それは、沖縄国民が戦闘で悲惨な目にあっているので、後々、県民に配慮してあげて欲しいという内容のものだった。
その後の6月13日、大田司令官以下、多くの将兵が壕内で自決している。
この壕はしばらく放置されていたが昭和45年になって整備され、見学施設として公開されたという。


やや陰鬱な気持ちになって壕から外へ出ると、過去に壕内で起った悲劇が嘘の様に、夕刻の斜めに射す光が眩しいくらいである。 
気が付くと、あちこちに沖縄特有の墓地が見えている、又、中央には階段も設えている程の立派な「慰霊碑」が鎮座していて、碑文には『海軍戦没者慰霊の碑』と刻してあった。 丁度、高校生らしき或るグループが「慰霊碑」に向かって正装し、経本を片手にお経を読みながら合掌していたのが印象的であった。


「沖縄戦」とは・・、

太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)、沖縄本島に上陸した米軍と日本軍との間で行われた地上戦で、3月下旬から終戦の8月までの戦いをいう。
正確には1945年3月26日から始まり、組織的な戦闘は6月23日で終了したとしている。

米軍本隊は沖縄本島・宜野湾の読谷、北谷の海岸に上陸を開始した。 
宜野湾の海域は米軍の艦船で埋め尽くされ、黒々としていたという。 
地上戦闘部隊18万3千、艦船約3千、補給部隊を合わせると54万の超大部隊であった。 
第32軍 司令官 牛島満中将以下日本陸軍は、浦添丘陵に主力部隊を配置して米軍を待ち受けた。
そして日本軍は地下陣地から迫撃砲や機関銃で応戦し、夜になると闇にまぎれて肉弾攻撃などを行う。 この血で血を洗う激しい攻防戦は米軍の上陸地・北谷から首里城までの10キロを進むのにおよそ50日間繰り広げられ、5月下旬まで続いたという。

この戦場で日本軍の戦死者約6万4千名、全兵力の八割を失い壊滅した。
因みに、日本軍の第32軍司令部は首里城壕に在り、現在はコンクリートの残骸として旧壕の痕跡だけが残っている。 
案内板も説明板も無く、戦闘による落盤の為、入口からは入る事ができないといい、草場の中に埋もれようとしている。 
浦添丘陵に残る「嘉数の塔」(かかずのとう:現、宜野湾市)の碑文は次のように伝えている、『 物量を誇るアメリカ軍の大軍、宜野湾に上陸す。迎え撃つ日本軍は兵器甚だ劣勢にして唯日夜肉弾、また肉弾。ここ嘉数の丘に玉砕す 』

日本陸軍はあくまで持久戦で臨む作戦をたて、ひとまず本島南端の喜屋武半島まで撤退した。
この時、海軍部隊は南部への撤退作戦に同調せず、海軍陸戦隊1万名が小碌飛行場(那覇飛行場)に立てこもって米軍を迎え撃ち、6月3日から10日間激戦の末、大田司令官以下将兵は海軍司令壕で自決し玉砕している。

喜屋武半島での最後の戦いは、まさに地獄絵図さながらであった。
日本軍司令部が移った「摩文仁の丘」(まぶに)は、丘陵全体が砲弾と炎につつまれ、まさに「鉄の暴風」が吹き荒れる丘となった。
6月23日、司令部壕に立て篭もる将兵が最後の切り込み攻撃をかけ、ほぼ全員玉砕して沖縄の戦いは終わった。

日本側の死者・行方不明者は18万8000人で、その内、沖縄県出身者が12万2000人、その中で9万4000人が民間人であり、負傷者数は不明だという。アメリカ軍側の死者・行方不明者は1万2500人で、負傷者7万2000人。

ただし、日本側の死者数は戸籍が焼失したり一家全滅が少なくないなどの事情により全面的な調査は行われていないため、実数はこれを大きく上回るという指摘もある。

1945年3月末の時点、沖縄戦が始まる以前での内地本土は廃墟と化していて、既に敗北状態にあったとも言われている。 

もし半年前(終戦の日から)のこの時、終戦を迎えていたら沖縄の悲劇は起こらなかったのである・・!!。

現在、「摩文仁の丘」である沖縄戦終焉の地は、緑いっぱいの平和祈念公園になっていて、沖縄戦犠牲者の「平和の楚」をはじめ、戦争の悲惨さを物語る遺品や戦禍の中での人々の生活、体験談を紹介する資料館等がある。


我等は、この旧海軍司令部の小山を下り那覇市内へ向かう。
次の行き先は「識名園」であるが、その前に・・、
次回、「漫湖


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